牟子について

「牟子」とは何か

牟子(ぼうし)とは、後漢末の支那に生きた、實在の人である。著書が一册だけあり、通常は『牟子理惑論』などと呼ばれてゐる。『老子道德經』を書いた老子が、人名を指して「老子」と言ひ、書物を指しても『老子』と呼ばれるやうに、牟子も、書物自體を指して『牟子』と呼ばれることもある。ここでは區別する爲に、人名の方を「牟子」と呼び、書物の方を『理惑論』と呼ぶことにする。

今、老子を引合ひに出したが、牟子は、老子を尊敬してゐた。それでかどうか、牟子には、老子と似たやうな所がある。例へば、生歿年が不詳であり、實在したかどうかも疑はれることが多い。名も字も不明であり、「牟」といふ姓も、單なる自稱であるから、本名ではない可能性が高い。(※老子の場合も、本名は「李聃」であるとされてゐる。牟子の姓名については、「牟融」や「牟廣」や「牟子博」などといふ記錄はあるが、いづれも誤解または誤解を元にした推測である。)

その「牟子」といふ名ですら、『理惑論』の序に付けられた自傳以外には記されてゐない。その他の文獻には登場しない人物である。しかし、その「自傳」に登場する人物のうちで、牟子以外の者は、歷史上、確かに實在した人物である。だから、完全なる架空とは言ひ難いのである。

一體、支那文獻學に於ては、「古い文獻ほど、新しい時代に出來たものである」といふ、加上説が、過剩に受入れられてゐるやうに思ふ。この牟子にしても、序傳をそのまま信用すれば、後漢末に生きた人物といふことになるが、これも後世の六朝時代の創作であるとする説がある。

確かに、後漢末に確かに生きた證據はないが、しかし、六朝時代に作られたといふ證據もまたない。

當時は寫本の時代であり、原本がそのままの形で殘つてゐるといふことはないだらうが、序傳に描かれた牟子が後漢末に生きたことだけは確實であると、私は思ふ。

「序傳」の要約

牟子既に經傳諸子を修め、書は大小と無く、之を好まざる靡し。兵法は樂しまずと雖も、然も猶ほ焉を讀む。神仙不死の書を讀むと雖も、抑へて信ぜず、以て虛誕と爲す。

かういふ書き出しで始まる。「虛誕」とは、「でたらめ」の謂である。以下は簡單な要約である。

靈帝崩御の後、天下は大いに亂れた。ただ、交州だけは比較的安泰であつたので、多くの人々が北方から逃れて來た。 その中には神仙術士も紛れてゐて、現地の人々もそれに魅せられて學ばうとする者が多かつた。しかし、牟子はそれらに對して五經を以て激しく非難した。道家・術士たちはそれに反論することは出來なかつた。

牟子は一時母を連れて交趾に世を避けてゐたが、二十六歳の時に再び蒼梧に戾つてきた。蒼梧太守はその噂を聞きつけ、官吏として登用しようとしたが、牟子は世の亂れを見ては、仕官の意もなく、斷つた。

今度は州牧からも要請があつた。「豫章太守の弟が笮融に殺されてしまつた。そこで、復讐の爲に部下の劉彦を派遣しようとしたのだが、途中の荊州の各郡が疑つて通してくれないのだ。君は文武を兼備し、辯舌の才もあると聞く。どうか行つて、零陵と桂陽を説得してきてはくれないだらうか。」と。牟子は、長年御世話になつてゐるし、「必ずや使命を果して參りませう」と答へた。しかし、いざ行かうとしたまさにその時、母が卒かに亡くなり、喪に服する爲に行けなくなつた。

そこで牟子は再び考へを翻し、己を顯す秋ではないと判斷し、佛道を學ぶことを志し、一方で老子と五經も學び續けた。しかし、世俗の徒は、五經に背いて邪敎を學んでゐると非難した。爭へば道ではなくなるが、しかし默つてゐることもできないので、かうして辯明の書を書くことにした。

補足など

當時の時代状況
靈帝が崩御したのは西曆189年である。遡ること五年、西曆184年から始まつた黃巾の亂が鎭壓された矢先に、董卓の專橫が始まり、朝廷の威はすつかり失墜して、天下は混亂を極めたのである。

北方から來た神仙術士たち
これは、もしかしたら黃巾賊の殘黨たちかもしれない。時期的にはちやうど合ふ。原文では、「神仙辟穀長生之術」となつてゐる。穀類を斷ち、長生きをする方法だらうか。
蒼梧太守と交州刺史(=州牧)
蒼梧太守は不明(史璜?)だが、交州刺史は、朱符で確定である。朱符の弟の笮融に殺された豫章太守とは、朱皓である。そして、朱符と朱皓の父は、あの朱雋である。朱雋は、朱符と同じく、交州刺史を勤めてゐたことがある(在任期間一七八~一八四?)。世襲したのかもしれない。牟子は朱雋・朱符親子に、長年御世話になつてゐたのであらう。
笮融
笮融は、佛敎の熱心な信徒であり、各地に佛敎寺院を幾つも建てたりもしたやうだが、その性格は極めて惡く、どこかに轉がりこんでは主人を裏切るといふことを繰返してゐる。まさに、呂布のやうな奴である。はじめ、陶謙の元に身を寄せてゐたが、西曆一九三年、曹操が徐州に侵攻すると、笮融はとつとと逃げて、各地を轉々とするのである。
朱皓と諸葛玄と劉繇
初め、豫章太守の周術が病歿したので、劉表は諸葛玄を豫章太守として上奏した。諸葛玄は甥の諸葛亮と諸葛均を連れて南昌に入つたが、これに後れて、漢朝側は、周術の死を聞いて、朱皓を派遣した。朱皓は揚州太守の劉繇に援軍を要請し、諸葛玄は敗れて、西城に退いた。建安二年(西曆197年)正月に、西城の民が反亂を起し、諸葛玄は殺害され、その首は劉繇に送られた。
以上が正史『三國志』諸葛亮傳に引かれた『獻帝春秋』の記述である。この時、劉繇の元に笮融がゐたのであらう。笮融はその後、劉繇を裏切り、朱皓を殺害するが、結局劉繇に敗れて死ぬ。序傳に描かれた朱符と牟子との對話が行はれたのは、朱皓が死んでから、笮融が死ぬまでの閒といふことになる。

簡單な年表

西曆
一六一 劉備誕生
一六七頃?牟子誕生
一七八 朱雋が交州の刺史に(〜一八四?)
一八一 諸葛亮誕生
一八九 靈帝崩御
一九三 曹操が徐州に侵攻、笮融が逃げる
一九四 劉備が徐州の牧になる
一九四~五 朱雋死亡
一九四~六 朱皓が笮融に殺される
一九七?笮融死亡
一九七?交州刺史朱符死亡、劉表は張津を派遣
一九七 諸葛玄死亡?
二〇二?蒼梧太守史璜死亡、劉表派遣呉巨
    同刺史張津死亡、賴恭派遣

以上より、牟子の母が亡くなり、牟子が『理惑論』が書いたのは、西曆一九六年前後、今から約一八一〇年前と推測される。

地圖

三國志地圖
最下部の「蒼梧」を含む綠色の部分が交州です。地域のやうになつてゐますが、實際は都市國家の集まりなので、イメージとしては少し違ふのですが、大體の場所の目安として見て頂ければと思ひます。
三国志ドライヴさんのフリー素材を拜借させていただきました。ありがたうございます。

參考文獻

『弘明集硏究』(京都大學人文科學硏究所)
日本語譯が載つてゐました。

參考リンク

原文

大正新脩大藏經テキストデータベース
史傳部のVolume 52 (No.2102)にありました。ダウンロード、解凍が若干面倒です。
中央硏究院 漢籍電子文獻
台灣の中央硏究院のサイトで、色々あります。『理惑論』は、「人文資料庫師生版 1.1」、「選自【大正新脩大藏經】」、「二一0二 弘明集(十四卷)」、「卷一并序」以下にあります。慣れないと使ひ方が若干分かり難いかもしれません。

その他參考にしたもの

笮融の傳記
呉書見聞といふサイトの一項目です。參考になりました。
牟氏理惑論 - Wikipedia
「牟子」の誤りだと思はれるが、それはともかく、平成十八年七月九日現在、章立てが書かれてゐます。

をはりに

三國志好きの一人として思ふのは、初めはただの同時代の人かと思つてゐたが、笮融や朱皓を通じて、閒接的ではあれ、劉備や諸葛亮とも多少の接點があるのだなあ、といふことです。

今回は一切内容には觸れませんでしたが、内容的にも、この時代に、既に、儒佛道の三敎の融和を圖つた人物がゐたといふことも面白いし、舌鋒鋭いのも樂しいので、またいづれ紹介したいと思ひます。


平成十八年七月九日

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