
明治28年(1895年)頃、愛媛県に生れる。父は銅山の「山当て」をする仕事をしていた。言葉通り「一山当てて」、成功した。英吉先生は四男であったが、それでも遺産で充分に食べていけるぐらい、裕福だったそうである。
(旧制)第三高等学校に進学、「三高始まって以来の快男児」とも呼ばれ、みんなを引き連れて、豪快に遊ぶような学生だったという。
京都帝国大学法科大学(現京都大学法学部)に進学、その後文科大学(現文学部)で学ぶ。この間、西田幾多郎先生と出会い、非常に影響を受けたようである。
「三高始まって以来の快男児」が、やがて「思想家」を目指すようになった経緯はわからない。しかし、何かきっかけがあり、一転した瞬間があったようである。
絵描きであった女性と結婚し、全国を旅しながら悠々自適の生活を送っていたが、長男(一郎)が生れたこともあり、また思想家として、著述業で食べて行きたいと考え、若い頃に学んだ京都に居を構えた。瓜生山の小高い場所に住み、昼間は京都を一望できる縁側で座禅を組んだり、弟子と議論をしたりして、日が暮れたら、原稿を書いたりしていたようだ。極度の眼精疲労のため、長時間の執筆はできなかったということである。
昭和15年(1940年)に処女作『科學の剃髮』(科学の剃髪)、昭和17年(1942年)に『獨創論』(独創論)を出版。「科学と宗教を弁証法的に合一させる」ということを理想とし、世間の「科学的合理主義」一辺倒の考えを批判した。四十代半ばを過ぎ、思想家としてはちょうど脂が乗ってきた頃であっただろうと推測されるが、折からの戦争・敗戦で、著述業も一旦休止せざるを得なかったようである。
敗戦により、財産は殆ど没収され、働かなければ食べていけなくなった。そんな時に、「幼稚園の経営をしてみないか」という声がかかり、周りの人々からの強い勧めもあって、昭和25年(1950年)「北白川幼稚園」を設立し、園長として働くこととなった。(この辺の経緯は、二代目園長山下一郎先生の『この道50年』第2章 保父誕生に詳しい。英吉先生の人徳も窺える。)
幼稚園経営の傍ら、昭和33年に『唯物問答』を出版。戦後流行ってきた「唯物主義」を批判したものである。論旨は戦前と変わっておらず、一貫して「科学的思考の弊害」を説いている。
昭和34年(1959年)に、園長を長男に譲り、その後は「園主」として北白川幼稚園を見守った。
普段は和服を着て、まるで僧侶のようにして、いつ見ても、縁側で座禅を組んでいるような感じであったようだ。
週に一度、家族全員を相手に、『論語』及び『老子』の講義をしていたそうである。
やがて、脳血栓で倒れ、半身不随のような形になったが、入院はせず、自宅療養をしていた。そして、1977年2月13日、「家族で話をしていて、ふと見たら亡くなっていた」というような感じで、極めて安らかな最期だったとのことである。