ある結婚式での山下英吉先生の祝辞

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原稿テキスト

鉤括弧や改行など、多少の整形を加えました。

暮れに新郎のお母さんが来られまして、「来年の正月に潤一が結婚することになりました。その時には、是非お二人のお出でを願って、何か祝いの言葉を頂きたい」ということで厶いました。私たちは、新郎のごく小さい時からよく知っている仲で、山登りなど朝夕まるで家族のように一緒にしたものであります。それで二つ返事で快くお引受いたしました。

ところが、私は歳のせいか、(私は本年数えで78になるものですが、)どうも”言葉の半身不随”とでもいうようなものに陥ったようであります。歳をとって、手足の思うように動かなくなるのを俗に「チューキ(中気)」と申しますが、私のように特に頭を使うものは、頭の「チューキ」にかかるものなのか、話しているうちに言葉が急に詰って、一歩も先へ進み得ないことがよくあります。そうなってはこういう席上まことにぶていさいでもあるし、皆様にもご迷惑をおかけすることにもなりますので、気の利かないことでは厶いますが、念のために渡しの話すことを書いて参りましたので、それを読み上げるようにして話させて頂きたいと存じます。それに、いつの頃からか、私は、むつかしいことしかいえない人間になってしまいました。人は私のことを「哲学者」など申しておりますが、何かは知らず、こういう席上にはこれ亦ふさわしくなく、野暮な気の利かないことで厶いますが、お許しを願い上げたく、あらかじめお断り申し上げておく次第で厶います。

さて本日は、河合・福田両家にとってこの上もないお目出度い日で厶います。私は両家の前途を祝うて心から「お目出度う!」と申し上げたいのであります。で、実はこの祝辞も、これ丈で竭きているので厶いますが、それでは何か物足りなく、依頼者の期待にも添わない儀かと存じますので、ほんの六、七分間要領だけ附け加えさせて頂きます。

一粒の麥もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん
死なば多くの実を結ぶべし

と。これは有名なイエス・キリストの言葉で厶いますが、私はこの言葉を、この結婚のはなむけにしたいと存じます。

少し解して申します。じつは結婚式に「死ぬ」とか「離れる」とかいう言葉は忌み言葉になっておりますが、しかしそれは憶病な一種の迷信でありまして、真理はもっと大胆でなければなりませぬ。第一、前へ進むためには、今いる所を離れねばなりませぬ。階段を一つ上がるためには、現在の階段を離れねばなりませぬ。離れることなしに進むことも向上することもできないのであります。現に青森の駅を離れて京都の駅にこられたのであります。「離れた」だけ「進んだ」のであります。

このように福田家に完全に「左様なら」を告げてこそ、河合家の人となるのであります。これが「結婚」で厶います。

人は一たび母の胎内から生まれます。しかし結婚によって再びこの世に生まれ変わるのであります。ですから結婚は再三の㐂びで、ほんとうにお目出度いのであります。

”あの人は結婚まではぐうたらであったが、結婚してからは人間が変ったように立派にマジメになった”というようなことを、よく聞きます。「ぐうたら」に”左様なら!”を告げて、「責任の駅」に降り立ったからであります。

ですが、そのためには娘は「娘」に別れを告げねばなりませぬ。息子も同様、「息子」を離れて一人前の男性──夫になるのであります。そして夫は更に父に、妻は母になって多くの実を結ぶのであります。これを一粒の麥もし地に落ちて死なば、・・・というのであります。「結婚の弁証法」とでも申しましょうか。

ですからむかしは、日本では、娘が妻に成ると、オハグロを用いたものであります。オハグロといっても、今の若い方にはご存知ないかも知れませんが、黒い塗料で唇をイブシ銀にするのであります。それは「私は、きょうからは潤一さんのもので、仇し男のものではありませぬ」という立派な人間宣言なのであります。ところがこの点、おろかな欧米をまねした近代日本女性は、「妻」に成っても唇を紅く染めて、「娘」を離れ兼ねております。ですから赤い蝶々が紅い未練の唇にとまって折角の結婚を台なしにしてしまうのであります。というのも、「娘」を完全に卒業しないから「結婚」を完全に死なせる結果になるのであります。

今や日本は米国に次ぐ離婚率の多い国と聞きます。欧米人に科学を学ぶのは意味のあることで厶いますが、幼稚な口紅哲学まで鵜呑みにするのは、明らかな日本人の「不覚」であります。とかく日本人は、最高のものを棄てて、つまらないものを模倣するわるい癖があります。

だが道理に二つは厶いませぬ。あの接木の原理をごらんなさい。「接木」は台木と接穂を一つに結えて新たな生命を造る一種の結婚ですが、そのためには台木から出る芽はことごとく摘みとってしまわねばならないのであります。摘み取るからこそ台木から送る栄養が接穂に集中して、もともと他人の木が同じ一つの木に成るのであります。であるのに家庭をよそに、キラを飾り、社交にダンスに、レジァーに福祉に、教育・政治運動にまで東奔西走しますから、足下の家庭から不良少年が飛び出すのであります。

しかしこう申しますと、私のことを「古い」と申します。しかし古いとは理論がなくなったということであります。さかしまにぶら下がっているコーモリは、正面(まとも)に歩いている人をさかだちして歩いていると笑います。

今や世界は一つになりつつあります。東西文化の融合、東西文明の結婚なしには世界はいまやパンク寸前のところまで参っているのであります。

一昨年の万博に、人類の進歩と調和というテーマをかかげましたのも、この為めであります。

しかし「調和」をうるためには二つの小さな「わがまま」を譲り合わねばなりませぬ。

味噌汁の味も、雑煮の味も、一方が他方に快く捧げねばなりませぬ。

どうかお二人の「個我」を摘み取って、一つの大きな「家庭我」にまで発展させ、もって人類の進歩と調和に、理想の雛形を示されんことを、私は心から祈るものであります。

少しむつかしくなりましたが、これをもって私の祝辞に代えたいと存じます。

どうかご多幸に。

1972.1.11 京都ホテルにて

郷里の雑誌などにお出し下さっても結構です。隣り合わせた紀念に拙いものですがさし上げます。 山下生

説明

たまたま私の母が参列した結婚式で、山下英吉先生がスピーチをされました。そのスピーチに感動した旨を伝えると、『唯物問答』とこの原稿を下さったそうです。

「味噌汁の味」という身近な例から、「東西文化の融合」という地球規模のテーマにまで及んでいる、何とも英吉先生らしいスピーチであると思う。「接木の比喩」もわかりやすい。

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