人名用漢字について

目次

人名用漢字の概要

昭和二十一年に、表音主義に基く國語國字改革の一環として、「当用漢字表」が公布されました。これは全部で一八五〇字あり、これ以外の漢字は使つてはならないとする漢字制限政策でした。これを受けて、昭和二十二年に施行された「戸籍法」では、子供につける名前に使ふことが出來る漢字を、この「当用漢字表」内の漢字に制限しました。

しかし、一八五〇字では足りないといふことになり、誕生したのが「人名用漢字」でした。昭和二十六年に九二字が人名用漢字として制定されたのを始めとして、その後幾度かに亙つて追加・擴充されてきました。

參考リンク

言葉 言葉 言葉」内の「人名用漢字別表(昭和26年5月25日 内閣告示1号)」には、人名用漢字誕生の經緯などが書かれてゐます。

人名用漢字の現状

平成十七年十一月現在、戸籍法第五十條には、以下のやうにあります。

第五十条  子の名には、常用平易な文字を用いなければならない。

○2  常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。

この法務省令とは、以下の「戸籍法施行規則」を指します。

六十条  戸籍法第五十条第二項 の常用平易な文字は、次に掲げるものとする。

一  常用漢字表(昭和五十六年内閣告示第一号)に掲げる漢字(括弧書きが添えられているものについては、括弧の外のものに限る。)
二  別表第二に掲げる漢字
三  片仮名又は平仮名(変体仮名を除く。)

別表第二に掲げる漢字が即ち「人名用漢字」です。これは現在九八三字あり、引用元のページ(「戸籍法施行規則」)下部に畫像データがあります。

ちなみに、「常用漢字表に掲げる漢字」は全部で一九四五字あります。これは、「人名用漢字」と被らない形なので、人名用に使へる漢字は合計で二九二八字となります。

人名用漢字の問題點

昨年に人名用漢字の大幅増があつて、喜ぶ聲は多かつたやうですが、これは喩へて言へば、今まで手枷・足枷・目隱しをされてゐた人が、足枷だけを外して貰つて喜んでゐるやうなものです。手枷と目隱しはまだ取れてゐないのです。まづ、その樣な手枷・足枷・目隱しがされてゐることが異常なことであることを認識しなければなりません。

そもそもの問題として、「何故子供に付ける名前も自由に出來ないといふ制限がまかり通つてゐるか」といふことがあります。『日本國憲法』には、

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

とあります。「子供に付ける名前の自由」も、ここでの「自由」に含まれるでせう。「公共の福祉に反しない限り、立法その他の國政の上で、最大の尊重を必要とする」。「人名用漢字」として自由を制限することは、果して、「最大の尊重」をしてゐると言へるでせうか。

それとも、「子供の名前に『常用平易』でない文字を使ふことは、公共の福祉に反する」とでも言ふのでせうか。

昨年の追加の後でも「人名用漢字」に含まれなかつた漢字

昨年度の追加でも議論があつたところですが、「糞」や「呪」など、人名用としてふさはしくない漢字は制限した方がよい、といふ理由がありました。確かにさういふ處はあります。「悪魔ちやん」と名付けようとして、不受理になつた例もありました。しかし、それは全漢字の中で一部に過ぎません。他に人名用として相應しい文字は數限りなくあります。ここで、その一部を紹介しませう。

歴史上の人物から取る場合

例へば、來年一月から月九で「西遊記」が始まるさうですが、三藏法師の本名は「玄奘」です。これにあやかつて、例へば「奘太郎(じょうたろう)」と付けようとしても、「奘」は人名用漢字に含まれてゐないため、付けることは出來ません。

また、支那には「天台智顗(てんだいちぎ)」といふお坊さんがゐました。これから取つて「智顗ちやん」と付けようとしても、「顗」が人名用漢字に含まれてゐないため、つけることは出來ません。

三國志好きの人も多いでせう。「陸遜」の「遜」は昨年追加されましたが、同じ軍師で言へば、「司馬懿」の「懿」はないし、「龐統」の「龐」もありません。「周瑜」の「瑜」もありません。また、「貂蟬」と付けたくても、「貂」も「蟬」も(「蝉」も)ありません。マイナーなところでは、「馬岱」が好きでも、「岱」の字を使ふことは出來ません。

おぢいちやんの世代の名前から取る場合

これが最も深刻だつたやうです。今ではさうでもないかもしれませんが、それでもおぢいちやん世代の名前で、人名用漢字に含まれてゐないものはあります。

元總理の「羽田孜」さんの「孜」は今回追加されましたが、任天堂の元社長の「山内溥」さんの「溥」といふ字は、今回も追加されてゐません(今調べたら本名ではないさうですが)。支那學者の「桑原隲藏」さんの「隲」といふ字もありません。同志社大學創立者の「新島襄」さんの「襄」もないし、新撰組の「山崎烝」の「烝」もありません。

その他の場合

「掬水(きくみ)」と名づけたのだけど受理されなくて、追加豫定案にも含まれてゐない、といふことが新聞記事になり、それを受けて特別に追加されたのが「掬」でした。

また、人偏に「愛」と書いて「僾(ほのか)」と名づけようとした親御さんもゐましたが、この字は追加されませんでした。

作家の大林宣彦さんは娘に「千茱萸(ちぐみ)」といふ名前をつけましたが、「茱」、「萸」共に今回も追加されてゐません。この件については後述します。

このやうに、昨年の追加でも含まれなかつたが、人名用に相應しい漢字は多數あります。

「常用平易」とは何か

話を戻すと、「常用平易」といふ言葉によつて名前をつける自由を制限することは、憲法違反ではないのか、といふ重大な疑義が根本にあります。

また、「常用平易」といふ語の概念は、いまいちよく分らないものです。「常用かつ平易」なのか、「常用または平易」といふ意味なのか。或いは「常用=平易」といふ前提の元の言葉であるのか。

對象も明確ではありません。全ての國民にとつての「常用平易」なのか、或いは名附ける親にとつてなのか。

思ふに、當初は「常用かつ平易」の意味だつたのでせう。「常用」とは、「当用漢字表」内の文字を示し、「平易」とは、「当用漢字字体表」で示された略字體の方を示す、といふことなのではないかと推測します。對象は「殆どの國民にとつて」だつたでせう。

しかし、時代を下るにつれ、解釋が變化してきたやうです。現在では、「常用」は「常用漢字表」とそれに準ずるもの(具體的には「表外漢字字体表」、今回の人名用漢字の追加はこの中から行はれた)を指し、「平易」といふ言葉はただの飾りとなつてゐます。

今回追加された漢字を眺めてみると、「常用」でも「平易」でもない漢字が澤山あります。例へば、「驍」などは私は恐らく初めて見る漢字です。「浬」とかは見た目は平易ですが、これを使つた熟語などは全く思ひつきません。しかし、これでも「常用平易」と言ひ張るのであれば、これは對象が「殆どの國民にとつて」から、「一部の國民にとつて」に變つたと見るのが適切な判斷でせう。

不受理になつても、裁判所に訴へれば人名用漢字に追加されるかもしれないこと

「常用平易」といふ言葉を認めるとしても、「俺にとつては常用平易である」と言ひ張れば、通る可能性もあります。

以前は裁判をすると國側が勝つてゐたのですが、最近は、「琉」の例や「曽」の例など、國側が敗れて、人名用漢字に追加されたといふ實例も幾つかあります。

先程擧げた憲法にもあるやうに、「自由」は「立法その他の国政の上で、最大の尊重」をされるべきものです。法律によつて國民が制限されるのではなく、國民の自由や幸福の爲に法律があるのです。法律の方が間違つてゐる場合には、國民の自由を尊重して、法律の方を變更すべきなのです(勿論、公共の福祉に反しない限り)。

參考リンク

戸籍法で定められた人名用漢字以外の漢字使用について
人名用漢字以外でも諦めるなといふ主旨のことがわかりやすく書かれてゐます。

それでもダメな時の對處法 - 規制下での自由の守り方

一般の人は「人名用漢字に含まれてゐない」となれば、裁判をするなんて面倒くさいし、ぢやあ仕方がない、他の名前を考へるか、となるでせう。(假に裁判をしても、認められない場合もあります。)しかし、ここで踏み留まつてほしいのです。

國が無くても、親子の關係はあります。親が子に名前を付けるといふのは極めて自然な行爲です。國の政策が、親子の自然な感情に水を差すといふことは、本來、あつてはならないことです。

まづ、「人名用漢字」の制限なしで、自由に考へてみて、その結果、「人名用漢字」内で收まれば、それは問題ないでせう。

しかし、もしその結果が「人名用漢字」外の漢字であつたとしても、迷ふことなく實生活ではそれを使へばよいのです。「人名用漢字」の制限が適用されるのは、「戸籍上だけ」のことです。「戸籍上」はひらがなでも何でもよいではないですか。

一番大事なのは、親の氣持ちです。名前に込められた思ひです。「戸籍」以外では、親が心を込めて付けてくれた名前を使へばよいのです。

最後に、先程の大林宣彦さんと娘の千茱萸さんの話を紹介します。

大林宣彦さんの例

――長女の千茱萸(ちぐみ)さんの名前の由来を聞かせて欲しい。

大林:名付けは親と子の物語の始まりだ。娘が生まれたとき、冬の日だまりの中で、庭のグミの木に赤い実がたわわになっていた。その小さな命に、僕の母の「千秋」の名から一字もらって娘の名としたい、と妻が願った。辞書で引くと美しい文字だった。

――出生届には何と?

大林:公のシステムの上では、名前の持つ役割も異なる。「表記はそちらにお任せします」と「千茱萸」と書いたメモを渡した。「いいお名前ですね」と窓口の温厚な職員はじっと見つめていた。戸籍上はひらがなとなる。それから四十年、いろいろな努力はあったと思うが、学校でも社会に出てからも、この「千茱萸」の名を娘も周囲の人たちも大切に守ってくれた。絆作りの証しとなった。

――今回は人名漢字の枠を大幅に緩和する方向だ。

大林:「姦」や「糞」まで入れるのは、緩和というより国の責任放棄のようで悲しい。極端な個性が尊ばれる時代はもう過ぎて、これからはチャーミングな常識に基づいた文化・芸術が社会の規範になるべきだろう。命名もそうした文化行政の一つであって欲しいが、それが未熟なら、いっそ規制をすべて廃して個人の常識に委ねた方がよい。今回の緩和は意図が不明だ。

――追加案は漢字の頻出度だけで判断している。

大林:漢字は組み合わせで意味も変わる。僕の若いことには「魔子」という女名にあこがれた。魔には「不思議」の意味もある。けれども男名で「魔人」とすれば悪魔を連想する。漢字だけ選んで並べて是非を問うのは、基本的に無理だ。

――若い親は、既成の劇画の主人公にあやかって名前をつけたりする。

大林:既成の価値観に委ねてこの幸せを願うのも親の愛だろう。偉人の名や流行が反映し、時代の夢の推移がうかがえる。名前は公の場でもやはり単なる符帳ではなく、一つの文化だ。

――読みにくい漢字ではいちいち説明する必要も生じるのではないか。

大林:願いや思いや文化を理解するには時間が必要だ。効率優先だけでは人間は幸福になれない。どうしてこの名がついたかを語り合う。対話がさらに物語を生む。絆とは互いの物語をわかり合うこと。物語には誤解もあり、傷つき合うことも多いが、許し合って愛を学ぶ。互いの異なる名の由来を確かめ合うのはコミュニケーションの第一歩。時間をゆっくりかけて、人間社会の成熟こそ願うべきだろう。

――名前の説明で自分の物語を伝える。相手のも聞く。

大林:良い社会は対話から生まれる。名乗り合うのは対話の入り口だ。良い対話を生むための文字選びは大切で、頻出度などでは測り得ないものだ。

――行政に必要なのは、物語を生むような漢字を選び出す努力だった?

大林:たとえば日本古来のさまざまな名前の由来の物語辞典を作る。それぞれに幸福を願った、古人の知恵を借りて命名に役立てる。規制や緩和主導の行政からは、もう脱皮すべきだ。

まとめ

要約すれば、「『子供に名前を付ける自由』が制限されてゐることは異常事態である」といふことです。一方では、「法律が自由を制限してゐるからと言つて、それに從ふ道理もない」といふことであり、「人名用漢字は戸籍上だけの問題であり、それがどのやうであらうとも、親が心を込めて付けた名前こそが本當の名前である」といふことです。

おまけ

以上で本論は終りですが、ここで若干の補足をしたいと思ひます。

「糞」は人名用として相應しくないかどうか

糞 - Wikipedia」によると、排泄を意味する古語動詞は「まる」又は「ばる」。「まる」の語は、おまるに残り、また、男児名に付く「麻呂」、「麿」、「丸」も、語源的に「糞」を意味するものとの説もある。これは、名に醜悪なものをつけ、幼児が魔物などに魅入られず成長することを祈ったものであるとか、力強く育つことを祈ったものと言われる。といふ話もあります。確か、モンゴル邊りにもそのやうな風習があつたと記憶してゐます。

現在の日本で、さういふ風習があると聞いたことはありませんが、いつさういふ風習が復活するとも限らないし、さういふ風習を持つた人が日本に歸化した時は、「糞」といふ字を用ゐたいかもしれません。それを今の日本人の勝手な常識で否定することは出來ないと思ひます。

「コンピューターで扱へないと困る」?

行政の側の言ひ訣の一つとして、「コンピューターで扱へないと困るぢやないか」といふのがあります。しかし、これは本末顚倒も甚だしいところです。理由は以下の通りです。



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