狩野直喜、字は子溫。君人、半農人、葵園などは、その別號である。姓の讀みは、カノであつて、カノウではなく、諱の讀みは、ナオキである。明治元年、熊本に生れ、はじめ鄕里に於いて佐佐友房の經營する同心學舍のちに改めて濟濟黌というのに在った。鳥居赫雄、古城貞吉、安達謙藏らは、その竹馬の友である。のち上京し、第一高等中學校を經て、二十八年、東京帝國大學文科大學漢學科を卒業した。漢學科第二囘目の卒業生であり、敎授は、島田重禮、根本通明、竹添進一郞であったが、最も推服するところは、島田氏にあった。また黑川眞賴、井上哲次郞、上田萬年、ブッセ、ケーベルなどの講義についても、晚年或は追憶を語った。漢學科同期の同學は、藤田豐八、ややおくれてのそれは、桑原隲藏、高瀨武次郞、鈴木虎雄である。また一高に於ける同學には小川琢治、漢學科以外の文科大學の同學には夏目金之助、松本文三郎、西田幾多郞、藤井乙男、藤代禎輔、原勝郞、髙山林次郞、内田銀藏がある。うち桑原、高瀨、鈴木、小川、西田、藤井、藤代、松本、原、内田の諸氏は、のち京都大學に於ける同僚であった。
大學卒業ののち、しばらく芝正則中學校、東京外國語學校等の敎師であったが、三十三年、文部省留學生として、淸國北京に赴いた。京都に文科大學を設置する議が政府にあり、その敎授たるべき準備であったが、到着後間もなく、義和團の變がおこり、服部宇之吉、古城貞吉、石井菊次郞らと共に、暴徒の包圍する日本公使館に籠城すること二ヵ月に及んだ。圍み解けてのち、一旦歸朝し、翌三十四年に再び上海に留學した。江南一帶を周遊して、彼土最近の學風を見、張之洞その他と會見すると共に、しばしば The North China Branch of the Royal Asiatic Society をおとずれ、西方の支那學と接觸した。
三十六年、歸朝して、居を京都に卜したが、文科大學がまだ開設されるに至らなかったので、しばらく織田萬、加藤繁らと、臺灣總督府の委囑する舊慣調査の事に從った。公刊された報告のうち、淸國行政法は、その名を署せざる著述である。
三十九年、京都帝國大學に於ける文科大學の開設が定まったので、狩野亨吉、谷本富、松本文三郎、桑木嚴翼と共に、開設委員となり、ついでこの年に開設された哲學科の敎授として支那哲學史を擔當した。この書物の底本となった講義は、すなわちこの年に開始されている。ついで四十一年、文學科の開設と共に、支那語學支那文學擔當を兼ね、以來その方面の講義をあわせ行った。四十年には、文學博士の學位を受けた。
そのころ、フランスの P.Pelliot イギリスの A.Stein が、甘肅省敦煌の石窟で、唐もしくは六朝の書寫にかかる多量の書籍文書を發見し、學者の注目するところであったが、四十二年、同僚内藤虎次郞、富岡謙藏らと、その北京に殘存するものを調査するために、淸國に赴いた。更に四十五年には、シベリアを經てヨーロッパに遊び、ロシアの V.M.Aleksieev フランスの E.Chavanne, P.Pelliot らと、縞紵の交を締しつつ、パリ國家圖書館、ロンドン大英博物館に儲藏する敦煌文書を調査し、論語鄭玄注の殘卷を發見する等のことがあった。足跡はまたオランダ、ベルギー、オーストリア、イタリーにも及び、翌大正二年に歸朝した。その頃、禹域の學者で、淸末民國初の紛亂を避け、京都の來住する者があった。董康、羅振玉、王國維などであるが、その數年にわたる滯留の間、同僚内藤虎次郞と共に、周旋すること甚だ蜜であった。
かくて昭和三年、退官するまで、京都帝國大學文科大學のちに改めて文學部に學を講ずること、二十二年に及んだ。哲學史の方面では、淸儒實證の學を祖述したこと、文學史の方面では、元曲その他口語文學の研究を創始したこと、いずれも從來の學者に無いところであったが、その學風の最も特徵とするところは、書を讀むこと精確にして、一字一句を忽諸にせず、博綜をむねとし、實證を尚びつつも、見識を先にしたことにあったと思われる。經に於いては、最も禮を嗜み、宗とするところは、鄭玄の注、孔穎達、賈公彦の疏であった。宋儒に於いては王應麟、淸儒に於いては顧炎武を喜び、本邦の儒に於いては、專ら伊物二子を唱道した。宋儒の嚴肅主義は、その喜ぶところでなかったが、この講義に於いては、能く持平の論を爲している。文は韓愈、汪中、曾國藩を喜んだ。北曲を治めたのは、その餘事であったが、詞と南曲とを喜ばなかった。漢詩文をよくし、また書をよくした。晚年の興味は、より多く文學に在ったと觀察され、この書物の底本となった哲學史の講義は、停年退官に先立ち、大正十三年にやんでいる。
大正十四年、帝國學士院會員となった。またその年、日華兩國政府合同の事業として組織された東方委員會に服部宇之吉らと共に委員となり、しばしば北京に赴いて、その地に於ける東方圖書館の開設、續四庫全書の編纂などを、中華民國の學者と共に主宰した。
昭和三年、停年の故を以て退官し、名譽敎授となったが、翌四年、東方文化學院が開設されると、その京都研究所長となった。今の京都大學人文科學研究所東方部の前身である。十年、フランスの Société asiatique の名譽會員となった。
十三年、研究所長を辭し、以後專ら家居した。終朝書を讀み、一日として廢することがなかった。十九年、文化勳章を受け、二十二年十二月十三日、病を以て京都市田中大堰町の自宅に歿した。壽八十。黑谷文殊塔畔に葬る。
平生、書を著すことに懶であり、生前に刊行された支那學文藪(昭和二年弘文堂)、讀書纂餘(昭和二十二年弘文堂)は、共に短編の論文の集錄である。ただ十種類にのぼる京都大學での講義は、おおむね底稿がある。ここに整理して出版するものは、そのひとつである。整理の次第ははしがきに見える。はしがきもこの跋と共に、吉川幸次郞の文である。昭和二十八年九月二十九日。