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第一編 總論

第一章 支那哲學史の範圍及び其の特質

凡そ廣義に學問と稱するものには其の種類が極めて多く、又之を分類するについて學者間に説を異にするものがあるであらうが、分類の一法としては命名の仕方によつて區別をなすことが考へられる。さて命名の仕方には二種あつて、一は研究に事項を以て直ちに學の名とするもの、卽ち心理學・物理學・數學等の如きがそれであり、一は或る一國に起つた文化の全體、卽ち其の國の哲學・宗敎・文學・言語・歷史・美術等につき研究をなすものであつて、國の名を學の上に冠たらしめるもの、例せば埃及學・アッシリヤ學・印度學等の如きものがそれであり、支那學も亦此の種類に屬するものである。(一)

此の兩者は其の性質同一ではない。前者は卽ち科學としてその學の研究すべき事項と其の範圍とが一定し、又其の學の領分と他の學の領分との間に判然たる境界があつて、各〻相犯さぬものであり、此と同時に學の性質が普遍的で土地を以て限られるといふことがない。後者にあつては其の研究すべき事項が複雜で其の範圍も亦一定してゐない。而して研究の對象は則ち國によつて限られるものである。茲に國によつて限られるといふのは、或る一國の哲學・宗敎・歷史・文學・美術を研究の對象とし全般的の哲學・宗敎等には及ぼさないといふことである。其の國の哲學・宗敎等にして、外國より影響を受け、又外國に影響を及ぼしたる場合の如きは、兩者の關係を殊に心に留めて研究さるべきものである。今、之を支那學の例に徵すると、從來和漢學者の研究したものは極めて多方面である。もちろん其の内には經史に長じて詩文に短、反對に詩文に長じて經史に短といふやうな例はあるけれども、要するに雜駁にして統一を缺いてゐるといふことは爭ふべからある事實である。しかしながら、此は必ずしも學者等が研究法を知らなかつた過ちに歸することではない。蓋し學術の性質が之を然らしめたのである。何故かといへば、埃及やアッシリア等の諸國は、古代に於ては世界文明の中心であつたが今は則ち國と人と共に泯び、博雅好古の士が今日に存する遺物によつて當時の文物を研究するのである。卽ち一の考古學である。支那は卽ち頗る之と異なり、上下數千年、朝廷の更迭はあつても其の國其の民族は依然として舊の如く、其の文物に至りても、或る意味より論ずるときは今日まで發達をなし、將來に於ても發達をなすものと考へられるし、又今日に發達したる文物の種類も亦かの二國の比ではないのであるから、單に考古學と見なすことはできない。しかし、支那の文明は亦西洋の文明とは大いに其の趣を異にし、尚古の習氣は人心を痼し三代の盛を以て復た及ぶべからずとし、學問も古人の範圍を脱して別に一機軸を出すといふこともできず、ただ訓詁解釋のみに力を用ひたため、互に分離を來し一の科學となるの地步に達しなかつたのである。故に今日より支那の學術に對し、此は經學である、此は哲學である、此は文學である、此は政治・法律學である、經濟學であるといふやうに分離し、其の一を研究して他を捨てることはできない事情にある。蓋し支那の學術の興味あることは其の分離すべからざる所に存する。若し之を分離せば其の價値は大いに減ずるであらう。其の故は、支那の學術は經典としてこそ貴い特色があるが、此を哲學・政治・文學等と分つてみれば、其の發達大いに歐米諸國のそれに劣る遜るを認めざるを得ないからである。

又此に注意すべきは、支那の文明が一種固有の性質を有し、比較的外國の影響を蒙ることなく、支那的に發達したといふことである。(二)

其の原因は蓋し一ならざるべきも、彼等が往古にありて或る文明の程度に達したので、之を以て最上無比として自ら誇ると共に、他國の文明に對して輕蔑の念が深かつたこと、又、支那の國土が東南は海に瀕し其の他は野蠻未開の民族に圍繞されたので、西方諸國に通ずる道路はありながら、彼等のために支那と西方諸國との接觸が妨げられたこと、又、支那の文字が思想を傳へるに極めて不便であつたこと、此等は大いに興つて力あつたことであらうと考へられる。(三)

之を要するに、支那の文明は外國の影響を受けることなく總べて支那的に發達し、其の特質は、あらゆる事物に顯れてゐるから、能く此の點に注意し、其の或る物(例せば宗敎・哲學)を解せんと欲せば、此れと同時に他の事物にも及ぼし、之を綜合して先づ支那の支那たる所以を知り、然る後再び特種の事項に及ぶといふやうにするを必要とする。若し然らずして純粹なる理論のみを以て支那の學問を解せば、大いなる誤謬に陷るの危險があるであらう。

さて本書に於て支那哲學を歷史的に敍述せんとするに方つて、先づ定めて置くべき問題がある。それは支那の哲學とは何物を指すか、換言すれば從來支那の學術中、今日の所謂哲學の範圍に入るべきものは何であるかの問題である。

そもそも支那哲學なる名稱は、西洋哲學・印度哲學に對して邦人の命名したものであつて、支那には昔より哲學なる名なく哲學史の名もない、從つて哲學と言つても支那の人には分らなかつたのである。此にその一例を擧げてみると、兪樾蔭甫曲園)は支那に於ける近時の大儒で、經學・文章を以て名を海の内外に馳せ、著述も多く、我國の人で就いて敎を請ひし人もあつた位であるが、彼のまだ存命中、我國に於て余の一友人が其の著述を讀み、哲學雜誌に「兪曲園の哲學」なる題目で其の學説を紹介したことがあつた。然るに其の後、春在堂全書といふ彼の全集の舶載され來つたのを見ると、其の中に、日本の學者が己の學説を紹介したるを喜び作つた詩がある。其の一節に「學ㇾ世人人談㆓哲學㆒。愧我迂疏未㆓研榷㆒。誰知我卽哲學家。東人有ㇾ言我始覺。」と。其の意味は、近頃は哲學とかいふ學問が流行し、誰も其の談をなすが、余は時代遲れで其の研究を是れまでしなかつたことを、心竊に恥かしきことに思つて居た。然るに豈計らんや余も亦た哲學者なさうな。余自ら毫も知らなかつたが、東人(日本人)の言によつて始めて之を知り、大いに愉快に思ふといふ意である。彼は經學に於ては淸朝の學者中屈指の人といふべく、彼自身も經學者を以て自任して居たのであるが、其の專門たる經學と哲學とは全く違つたものと思つて居たのである。又支那の學者の中には、此の哲學(日本でいふ)なるものは、支那にて昔から經學に反對していふ諸子異端の學、卽ち老・莊・楊・墨・申・韓といふやうな儒敎以外の學問に當るものと理解したものもあつた。是れも兪曲園と比すべき學者で又政治家であつた張之洞といふ人のことであるが、前淸の末に北京に於て大學堂が創設されたとき、彼は學科課程について意見書を上つたことがあつた。その中に彼は大學に西洋哲學科を置くの不可なるを論じて次のやうに言つて居る。哲學は支那の諸子異端の學の如きものにて空理を説き、何等實用あるものにあらず、かかる學科を置くことは、唯危險思想を學生間に傳播せしむるものにて、國家に害あり、唯倫理學(西洋のそれ)は人間道德の法則を敎へ、名學(形式論理學)は推理の法を敎ふるものにして哲學とは關係なし、此の二學科は大學に設けざるべからず云云と。而して大學の課程を見ると我邦で支那哲學といふものを彼等は何と稱して居たかといふに、やはり經學・諸子學・宋明理學といふ具合に別けて、此の全體を總括する名稱はつけて居らず、勿論支那哲學の名稱はつけて居ない。

しかし一方より考ふれば之も道理あることで、支那にて從來經學・諸子學・宋明理學など呼び來つたものを一括して支那哲學若しくは支那哲學史と呼ぶことの適否は問題である。蓋し支那人は古代より常識に富み實行實利を重んじたる國民にして、其の敎學は政治的・法制的・實踐倫理的である。其の行き方が希臘のそれとは大いに違ふ。試みに之を希臘の例に徵するに、彼にあつては其の初め人間の問題にはふれず、專ら宇宙論的な題目に思索を勞し、倫理道德について切實に考察せしは餘程後の事で、ソクラテス以後の事といはれる。此の點、支那とは非常に違ふ。支那人は古代より既に倫理道德の方面に注意して居り、而もその倫理道德たるや哲學的若しくは論理的倫理ではなく、實踐的倫理であつたことは、經典の述べる所に就いて見ても明かである。孔子以前に、六經とて古代聖王の敎訓を載せた經典があつたが、孔子は之を刪述し此に新なる生命を與へて、後世に傳へられたものである。この孔子の敎と六經とは極めて密接離るべからざるものであつて、孔子の思想は之を六經に得るもの多きことはいふまでもない。要するに此等の經典又之に基づく經書は、古代より今日に至るまで支那人の思想を支配し、其の政治・道德に關する思想の源流であつて、所謂哲學的思想ももちろん幾分かはあるが、西洋哲學書などと同樣に見るは大早計と云はざるを得ない。

支那思想中思索的なる點で特色を認められる宋明理學は、元來經學より出たものであるが、彼等は從來漢唐の學者の經書に關する見方が面白くないといふ所から、佛敎とか老莊などより得たる哲學的見地から新しき解釋を試み、孔孟の直傳と稱し、漢唐の經學に對して「性理學」の一派を起したものである。彼等は經書に對して新しき解釋をなし、漢唐學者の見たる儒敎は實踐倫理にして唯孝悌忠信といふが如き德目のみを列べ、其の由つて來る源頭に論及しなかつたことを遺憾とし、宇宙論とか人生論とかいふやうな問題に及んだもので、換言すれば原始的の儒敎に形而上學的基礎を與へたのである。されば漢唐の學者が唯經書の訓詁のみを調べたものに比すれば、大いに哲學的であるけれども、能く其の學説を味ひ見れば、やはり實踐躬行が主眼となつて居る。

孔子と同時に老子なる人あり、孔子敎とは餘程違つて、其の議論は形而上學的である。此等の思想も、孔子が六經から影響を受けたやうに、老子以前に彼の如き思想が存して老子は之を集めて大成したかどうか、此は極めてむづかしき問題で今此に詳述することは出來ないが、余は寧ろ、老子の敎は、一方に政治的・法制的・倫理道德的の敎が古昔より盛で、殊に周の時代は文を尚ぶの結果、色色の弊害があつたところから、其の時代の反動として起つたものと思ふ。換言すれば支那に於ては、六經が前にあつて老子流の哲學思想は後に起つたものと考へられる。ところで前述の張之洞の説の如く、老子の學問はどちらかと云へば西洋にて云ふ哲學に近いかとも思はれるが、その老子の學問とても決して純然たる思索的なものではない。其の内に支那の實際的常識的な傾向が十分認められる。老莊學派以外の諸子、例せば法家・名家・墨家に至つては形而上學的に議論とは違ひ、やはり政治・道德などであり、殊に墨家にあつては社會問題に就いて全力を盡して居るといふ次第である。

かく述べ來れば、六經と孔子敎と諸子の學に於て、支那に起りたる學問として共通の特色を見出すことが出來、而してそれが支那哲學の特色であつて、西洋哲學と異なる所である。

なほ、もう一つ述べて置きたいのは、此等の學問は周時代には盛であつたが、秦が天下を一にすると此等の學術は絶滅し、漢に至つて學術が再び起つたのであるが、獨り六經と孔子との道を尊んで國家がそれを奬勵したので、他の諸子の學は折角周時代に儒家と相互ひに盛であつたものがその發達を止め、支那の學問が單調となつた。是れと同時に六經及び孔子の敎なるものは宗敎ではないが、それが殆ど宗敎の敎理と宗敎の敎祖としての尊敬を受け、如何に後世の學者が色色其の學説を立てても、最後の判決を與へるものは六經と孔子とであつて、其の範圍を脱することが出來ないのである。然らば次ぎのやうな問題が起るであらう。前に述べた諸子は暫くおき、六經・孔子の敎(思想)はちやんと一定して動かすべからずであり、後世の學者は其の範圍を脱することがないとするならば、結局孔子以後の學者の思想といふものは相互にさしたる區別なく、從つて哲學史として成立し得るか否かといふ問題が起る。しかし、それは慥かに成立し得ると考へる。何故かといふに、假令漢以後の學者が六經と孔子の敎を脱せずとするも、六經の載する所、又孔子の敎といふも、何人が見ても異つた意見解釋を有つことの出來ぬやうな一定したものでない。甲の人が六經・孔子の敎はかうであるといふのと、乙の人がいふのとは異なる。我の言ふ所が孔子の眞の敎と云つても、他の學派より見れば全く異端外道であるかも知れぬ。それで、往往にして同じく孔子の敎を傳へたと自ら任ずる人人の間に學説が全く反對することがある。同時に榮えて居る人の内に意見が違ふこともあり、又時代によつて時代思潮として違ふこともある。卽ち漢唐の學者の説と宋明學者の説とは違ひ、明の學者と淸の學者とは違ふといふやうなことは後者の例で、つまり時代によつて儒學が全く違ふのである。それで西洋哲學史の如く多樣ではないかも知れぬとはいへ、隨分學者個人により又時代により、六經・孔孟の範圍を脱せぬとはいへ、百花の叢に入りたる如く、山陰道上を行くが如く、人をして應接に暇あらざらしめるものがある。

以上述べたる如く、諸子を除き儒學の方面に就いて言ふならば、個個の學者により又時代により、儒家の經典若しくは或る問題につき見解が區區になるのは一體何故か。それには色色の理由がある。だいいち、儒家が孔子に折衷することは論ずるまでもないが、或る問題につき孔子が未だ論及されなかつた事が澤山あり、又論及されてもはつきりと明言し、其の意味が何人にも同一に理解されるやうになつて居るものが割合に少い。例せば性論の如きものにて、或る學者に言はしむれば性論は儒敎倫理説の骨子ともいふべきものなれど、孔子は「性相近也。習相遠也。」と言はれただけにて、性の善惡に就いては何とも言はれてゐない。それで孟子は性善を説き荀子は性惡を説く。其の言ふ所は全く同じでない。從つて道德の起源についても説が違つて來る。宋の朱子は道を以て日常當行の理とし、此の理は我が心に先天的に存在する、卽ち人が道德を履行するといふことは、決して我より外に何ものかがあつて道德を履行すべく餘儀なくするのではない、我が本心より發し之を行ふのである、換言すれば道德の爲に道德を行ふものであつて、他に目的あるのではないとする。卽ち道德を自律的に見るのが朱子の説である。然るに我邦の徂徠は論語にある「道」の字を解して、道とは禮樂をいふと言つて居る。是れは徂徠が性説に於て孟子を取らず荀子を取つた所から必然的に起る結論である。卽ち徂徠の説によれば、道德なるものは先天的に吾人の心にあるものではない、是れは昔聖人なるものがあつて人類をして平和に其の生を遂げしむる目的を以て作爲したものであつて、結局人類の爲に其の進むべき標準を示したものである、それで何故にかかる道を履行せねばならぬかといふことは之れを作爲した聖人でなくては分らぬ、我等は聖人を信じ其の禮樂に從つて行けばそれでよいとする。卽ち全く道德を他律的功利的に見るのである。是の如く、一の性論の相違よりして色色の學説が出て來るのである。なほかかる學説の不一致をもたらす事情として次のやうなことが考へられる。

一體、經典の文といふものが近世の文と違ひ、非常に簡潔に出來て居る。或る場合には、あまりに簡潔に出來て居る爲に、一の文章について色色違つた解釋を爲すことがある。此の解釋の相違よりして、又種種學説の上に變動を來すことがある。一例を擧げると、前に述べた「道」の字の如き、つまり一の名詞について其れが如何なる意味であるか、委しくいへば其の定義は如何と云へば、中中さやうに確と極つたものはない。卽ち「道」に就いても、孔子自ら「道」とはかくかくのものなりと定義を下したことはない。又「仁」といつても同樣である。論語を見ると、門人が仁を問ひ、孔子が之に答へられた所は澤山あるが、孔子の答自身が一定して居らぬ。甲の人に答へた所と乙の人に答へた所とは同じでない。此れはその筈で、門人が「仁」を問ふのは「仁」の定義を問うたものではない、如何にして仁道を行はんとするか、その行はんとするにつけての心得を問うたのであり、孔子は又之れを問うた人の程度・性質等を見て之に答へたものである。「仁」の定義は孔子及びその門人は知つて居たと思はれるが、論語には之を明言して居らぬ。それで孔子の「仁」とは何ぞやといふことになると、非常に問題がやかましくなるのである。是は唯一例であるが、其の他、義・禮・智とか天・鬼神・理・氣・心・性といふやうな抽象的な名詞になると、其の定義が中中むづかしく、其の相違よりして種種な學術上の差を生ずるのである。卽ち此等の抽象名詞が、原始的の儒敎に於ては宗敎的若しくは實踐倫理的にのみ解釋されたるものが、宋儒に至つて理論的形而上學的の意義を附加されるに至つたが如き、卽ちこれである。以上は文章の點から言つたことであるが、更に進んで經典それ自體にも問題がある。

儒家の奉じて金科玉條とする經典に就いても、それが孔子の刪定を經たものとして絶對の信用を置かれて居るかといふに必ずしもさうでない。今日經典として傳はり、一般に孔子の刪定したる其の物と考へられて居るものでも、果してさうであるか否か疑ひなしといへない。例せば易についても其の或部分は孔子が書かれたものとなつて居るが、之を疑ふ學者もあつて今日は寧ろ其の部分は孔子の作でないといふ説の方が多い。其の他、書・詩・禮・春秋、それぞれ其の本文について議論がある。殊に春秋について、此れは一般に孔子の筆に成るとは諸家の多く一致する所であつて、孔子の理想はこの書に盡きて居るとも言はれて居る。しかし、春秋にも左氏傳・公羊傳・穀梁傳といふ具合に、一の春秋學が古昔より澤山の學派に分れて居る。それで左傳派の見た春秋によれば、孔子は堯舜を祖述し、文・武・周公を憲章した人で、春秋の中には尊王の大義を寓して居るものとなつて居る。然るに公羊派に於ては、孔子は唯古聖人の道を宣傳した人ではない、孔子は周の臣子でありながら、天命を自覺して、周公の作つた法を革改し、新しき彼自分の法を制作したものであるとする。甚だしきに至つては、春秋の開卷第一に見えて居る春王正月の「王」は、周公のことではなくて、卽ち孔子をさすもので、孔子は素王卽ち無冠の帝王として人類の爲に新しき法を作つたものとする。かかる違つた立場から春秋を見るから、其の學説が互ひに違ふのは當然なのである。

なほもう一つ考慮すべきは、同じ儒敎の經典にて、一の經典と他の經典とが説く所の方面が違ふのは仕方なしとして、其の説く所が必ずしも一致せず、時としては互ひに相反する所がある。かういふ場合、その學説の根據とする經典を選擇せねばならぬ。其の選擇の具合によつて學説が大いに違つてくる。例せば我が伊藤仁齋の如き、彼は論語を宇宙第一の書と唱へて專ら之を信奉し、五經は價値なしとは言はぬが、たとへば古き寶物の如きもので床の置物に過ぎず、儒敎の眞髓は論語に盡きて居ると言ひ、四書の中にても論語のほかは、孟子は取れども大學と中庸とを取らない。徂徠に至つては論語は取れど孟子は取らぬ。仁齋も徂徠も、宋の程子・朱子の學とは全く出發點を異にするが、彼等二人の間に於ても孟子を取ると取らぬとによつて、非常なる學説上の相違があるのである。

以上述べ來つた理由によつて、諸子を除いた經學家だけにしても、個個の學者により又時代により其の學説が極めて多岐なるを知るべきである。しかしながら、其の學説が極めて多岐なるを致す所以が、多くの場合古典の選擇とか古典の本文批評・解釋の相違から來るとすれば、ある意味において支那哲學史の大部分は、支那古典學若しくは古典研究の歷史と名付けることが出來ると考へる。以上述べ來つた所を圖示すれば左の如きものである。


原文注

(一)我が國にて古來より今日に至るまで漢學と稱するは、漢土の學術を意味し、支那學と同一物ではあるが、漢學なる名稱は學問的の名ではない。又其の意味も漠然として漢學の定義を與へることは困難である。しかのみならず、此の語は我が國と支那とで用法を異にして居る。支那人の所謂漢學なるものは自ら一定の意義を有し、經學の一派であつて兩漢の訓詁學を指し、卽ち宋明の理學に對して言ふのである。淸朝の考證學も亦漢學の流派である。故に誤解を避ける爲、學問としては支那學と稱するのが妥當であると思ふ。現に西洋にても支那の事物に關する學術的研究を名づけて「シノロギー」 (Sinology, Sinologie )と稱し、其の研究者を「シノログ」 (Sinologue, Sinolog )と稱するが、此れ正に支那學・支那學者の義である。

(二)漢人とても決して支那原始の人民ではない。有史以前にあつて中央亞細亞地方よりパミールを超えて新疆に入り、黃河の流域に沿うて支那の西北部に入つたものだといはれてをり、支那の文明も要するに支那に起つたものではなく、其の源は外國にあるやも知れぬ。それで余が茲に外國の影響と云ふのは、漢人が既に支那に根據を定めた以後を指して言ふのである。又外國の影響なしと云つても、例せば佛敎の如き、支那の學問技藝等に大なる感化を與へたことは云ふまでもないことで、今は唯大體に就いて言つたに過ぎない。

(三)此の事に關しては、 Williams; The Middle Kingdom, vol. II, p. 188 以下を參考されたい。

入力者注

「支那學」は原文でも「支那學」であつた。

百花の叢に入りたる如く、山陰道上を行くが如く、人をして應接に暇あらざらしめる
『世説新語』王子敬云:「從山陰道上行、山川自相映發、使人應接不暇。若秋冬之際、尤難為壞。」「山陰(会稽)道上より行けば、山川自ずから相映発し、人をして応接に暇あらざらしむ。秋冬の際の如きは、尤も懷を為し難し」
參考リンク:応接に暇あらず
百花の叢に入りたる如くの方の出典は調査力不足で分りませんでした。(解る方がいらつしやいましたら、敎へて下さい。)

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