余は前章に於て、多くの場合、支那哲學史は經學研究の歷史と一致する旨を述べた。しかし經書は儒敎思想の源泉なれども、猶ほその以外に諸子百家の言がある。而して此等の多くは周時代の産物なれば、此等の書を一括して總て古典と呼ぶことができ、從つて支那哲學史は支那に於ける古典研究の歷史といふことができる。そこでこれから支那の古典研究の歷史を述べようと思ふが、其の前に極めて置かなければならぬことは、吾人の古典に對する態度といふことである。乃ち吾人が古典に對し智識を有し其の考が一定して居らねば、其の研究が數千年の間に支那に於て如何なる變遷をなしたかを知ることができないからである。故に此の章に於いては、吾人の所謂古典研究法に就いて一言しなければならぬ。
支那古典の研究は分つて二とすることができる。卽ち一は本文研究であり、二は敎義研究である。蓋し、此の兩者は互に密接なる關係を有し、其の一のみで他を缺くは不可である。若し本文研究のみに力を用ひて敎義研究を缺くならば、古典本文の言語學的の解釋をなし得ても、一つの學説に對し槪括的智識を得ることができず、反對に敎義研究のみに力を用ひて本文研究を忽にするならば、其の研究は恰も砂上に屋宇を構ふるが如く、其の根據薄弱にして其の結果亦極めて不正確のものたるを免れない。この例は西洋にて支那の哲學・文學などを批評する人人に往往あることで、支那古典を讀む力が極めて弱く、甚しきに至つては全く漢字を知らぬ者が、唯いい加減の飜譯書により、儒敎はしかじか、老莊の學説はしかじかと、槪括的の議論をなして居るものがある。議論そのものを、儒敎若しくは老莊の學説より引離して考へれば、中に面白き節もあるが、儒敎思想がさうである老莊の學説がかうであるといへば、それは甚しい間違ひである。希臘の哲學を研究するに、現代語に忠實に飜譯した書籍があれば、假令希臘語を知らんでも出來るかも知れぬが、支那の經籍はさうはゆかぬ。今日まで、西洋でも又日本でも左樣に權威ある飜譯書はないし、又果してそれができるか否かは疑問と思はれる。それで、儒敎の思想でも亦諸子の學説でも、之を槪括的に紹介し批判する前には、先づ之を讀んで其の本文を理解することが必要なのである。
然るに此の二方面については古來、和漢の學者間にも、等しく力を用ふることなく、動もすれば一方面に偏倚し兩者を均等にやつたものが少い。卽ち儒學にのみ就いて言つてみると、支那の儒學は漢唐學と宋明學とに二大別し得るが、漢唐學及び其の學派に屬するものは、本文研究に力を用ひて居るので、此派を一名傳經派といひ、之に對し宋明學及び其の學派に屬するものは、敎義研究に力を用ひて居るので、此派を傳道派と呼ぶ。さて、傳經派にあつては、儒敎の敎義は載せて六經にあり六經をすてて道を知る能はずと云つて、之に絶對の信仰を置き、從つて之を極めて精密に研究する。而して其の弊として、本文は槪括的につかむといふことよりも繁瑣なるまでに其の訓詁とか六經に見えたる名物度數の闡明に全力を盡し、却つて大切な道そのものに就いては討究を缺いたといふ結果に陷つて居る。一方、傳道派はといへば、此の派とても六經を重んじないわけではないが、傳經派の如く必ずしも道を以て客觀的の六經にありとはせず、寧ろ道は我心にありとする。而して此の道は堯・舜・禹・湯以來相傳の道であるが、それはみな以心傳心、卽ち心法を遞次に傳へたるものとするのである。蓋し、この心なるものは道心・人心の別はあれども、要するに一の心にして、聖凡の心みな同一である。六經は、要するに其の心法を文字の上にあらはしたものなれば、唯文字のみに捕はれては不可、寧ろ文字の恨めんにあるものをつかまねばならぬとするのである。換言すれば、傳經派の方は客觀的に六經を闡明するのであるが、傳道派の方は寧ろ主觀的に六經を解説する。從つて、前者にあつては六經と言はれて居るものは孔子の傳へたものとして絶對に信奉するが、後者にあつては必ずしも然らず、自己の學説に反對なるものあれば、たとひ六經でも之を疑ひ、聖人の作にあらずとして取らぬのである。此の兩派には各〻長所短所を具へて居るが、彼等は何れの時代にも又何れの地にても相爭ひて氷炭相容れず、漢學派は宋學派を罵つて、彼等は己れ獨り聖人を知ると稱すれども其の説く所は孔孟の嘗て言はざる所であり、又彼等は經典の文句を忠實に解することは能はず曲解して己れ自身の道に合はせて居る、而して彼等の道は安ぞ知らむ佛老の道であつて孔孟の道にあらあるを如何と言つて居る。一方、宋儒は又漢儒を罵つて、漢儒は唯經典の訓詁を解するに止つてゐるが、訓詁を明かにする如きはまことにつまらぬ事で、それよりも文字の中に道を會得し而して之を實行するのが眞の學問であるといふのである。かく雙方の爭論は絶えることがないのであるが、何れにも長所もあり短所もあることで、吾人が支那哲學を歷史的に研究せんとするには、兩者に屬する人人の著述を等しく利用すべきことを忘れてはならぬ。
第一、本文研究は又分つて三とする。(一)は本文批評、(二)は訓詁、(三)は校勘である。
(一)本文批評とは、茲に一つの經典ありとする、そしてこれは相傳へて某の作、又作者は分らぬとしても某時代のものとなつて居る、しかし、それが果して眞なりや否や、若しくは後人の依托なるか、此等の問題を決する仕事である。一體、何れの國を問はず、古典には必ず眞贋相雜るものであるが、殊に支那には種種の事情よりして、其の手になつたと言はれても果して正確疑ひなきや否や分らぬものがある。支那古典に於て、六經は孔子の鑑定を經たものとして後人の疑ひを容るる能はざるが如けれども、其の實、今日に現存する六經が、果して孔門の舊なるか後人の鼠入なきか、又其の書は眞なりとしても、其の作者に至つては明白ならぬものがある。諸子の類に至つては、後人の依托若しくは鼠入によるものが極めて多い。蓋し、經・子に論なく、從來學者間に議論なきものは一として之なきはなしといふ次第である。先づ易に就いて言つてみると、易は普通の説として、伏羲八卦を畫し、文王之を重ねて六十四卦をとし又彖辭を作り、周公爻辭を作り、孔子之に依り十翼を作つたといはれて居る。然しながら、重卦の文王たるや否やは從來之を疑ふものがあり、又文王が彖辭を作り周公が爻辭を作つたといふことも異説がないわけではない。殊に孔子の十翼、就中、繫辭・文言の如き、若し之を孔子の作とせば、易に對する孔子の意見を知ることができる。又、宋儒の哲學は多く根據を之に有するもので、宋儒の所謂太極、若しくは其の二元論の本づく所たる「形而上者㆓之道㆒。形而下者㆓之器㆒。」などの語は皆繫辭傳にある。しかしながら、繫辭・文言等が孔子の作でないといふことを論ずるもの、歐陽脩(易童子問)以來其の人に乏しくない。我が伊藤仁齋(語孟字義)亦同論である。之を要するに、繫辭・文言等が孔子の言たるか否かは、孔子の學説を研究する上に大なる影響を與へるものである。書も宋以來、今文・古文に關して學者間に議論があつたが、これは淸朝に至り閻若璩出でて鐵案を下し、古文の僞たることが始めて確定した。しかし、微細の點に至つては未だ定まらぬ點が多い。次に詩はもと諷誦に依つて傳へられたので、秦火以來、其の本文には甚しき異同は無かつたが、詩に對する解釋に至つては漢に四家(齊・魯・韓・毛)あり、此等の學派によつて其の解釋に異同がある。而してその解釋の異同とても、一字一句に對して説く所を異にするのみならず、一篇の全體に對して解釋を異にするのである。例せば、國風關睢の篇の如き、毛公に依るときは后妃の德を頌したるものとすれど、魯詩に依るときは周の康后を刺つたものとする。今、齊・魯・韓三家は既に泯び、今日に現存する最古のものは毛公に依つて傳へられた毛詩である。しかしながら、後世、毛詩に對して説をなすもの極めて多く、朱子集傳の如きは全く小序を廢し、別に一家の解釋を爲して居る。其の他禮に就いても、禮記の内には信用すべからざる箇所も少くない。禮運には、今日の社會主義者が唱へるやうな思想が澤山入つて居り、それも亦孔子の言葉となつて居る。亦、檀弓に記する所の如き、孔子及び儒家に對して讒誣をなしたと思はれる點もあるのである。周禮・儀禮の如きも、之を信ずるものと疑ふものと相半ばすといふ次第で、殊に周禮については、古來聚訟紛紛として一に歸することができない。或は周公太平の致すの迹となし、或は戰國陰謀の書となし、或は劉歆の僞作とするものもある。春秋は孔子が魯の史記に本づいて作つたといふことに一致して居れど、三傳すなはち左傳・公羊傳・穀梁傳の説く所は一樣でない。例せば左傳によるときは孔子の意、周室を尊ぶにありとすれど、公羊によるときは孔子改制革命の意を寓したものとする。尊王と革命、相對すること何と甚だしいではないか。其の他三傳の説く所、同一事件につき、或は以て善とし或は以て惡とし、同一人を或は以て男とし或は以て女とするといふやうな例もある。六經以外、大學・中庸の作者なども必ずしも曾子・子思と決定するわけにゆかず、又論語の如き、是は孔子の門人が各〻其の師と問答したる所を又其の門人が傳へて居つたものを後に編集したもの故、餘程信をおくべきもので、實際孔子の人格及び其の敎理を硏究するには論語に比すべきものはないと云へるが、これとても文體その他の點から、前十篇は信用すべけれど後十篇は信用すべからずとするものもある。以上、經書の方を述べたが、諸子に至つては殊に甚だしく、全く後人の依托に出づるものと、依托にあらざるも後人の加筆になるものが甚だ多い。今一二の例を擧げると、老子の如き、極端なる批評家に至つては、後人の僞作であつて老子は實存した人ではないとするものもある。又ここに列子と稱する書がある。其の中に輪廻といふやうな思想が見えて居る。若し列子全部が眞のものであれば、戰國時代に於て已にかかる思想がおぼろげながら支那にあつたとせねばならぬ。然るに一説によれば、列子の或る部分は、全く後世卽ち東晉の頃、鼠入されたものといはれる。若しこの説が正しければ、東晉のときは既に佛敎が入つた後故、この輪廻の思想なるものは、佛敎思想の影響を受けた人が書き入れたもので、元來列子にはかかる思想はなかつたとみねばならぬことになる。結局、列子の本文を全く信ずると否とは、其の思想を硏究する上について非常なる關係がある。
以上のやうな次第なれば、某の哲學を云云せんとする場合には、各箇古典に對し、從來の學者の説について公平なる判斷を下し、又之に加ふるに自家の意見を以てし、其の眞僞と其の信賴すべき度合とを定めなくてはならぬ。
(二)訓詁とは、古典に見えたる文字の釋義である。凡そ古典を解するに、訓詁と義理とは兩つながら廢することはできない。訓詁に通ぜずして本文の意味を理解せんとするは、猶ほ檝なくして舟を行るが如きものである。もちろん、其の訓詁を理解したとしても、全體の意味をつかむことが直ちにできるといふわけではないが、一字一句は全體の文章を組織する要素なれば、古典を解釋するには先づ其の訓詁を知らねばならぬ。而して此に注意すべきは、古典の文字中には文字そのものこそ變らざれ、其の意味に至つては古今同じからざるものがある。例せば、此に「僞」といふ字がある。今日は詐僞とか虛僞とかいふ熟語があつて、人を欺き誑かす意味に用ひられて居るが、昔は必ずしも惡い意味にのみ用ひては居らぬ。荀子性惡篇に「人性惡。其善者僞也。」といふことがある。是の意味は果して如何に解すべきか。人の性は元來惡にして、生れたときより惡をなさざるべからざるやうに出來て居る。それで人間が善をなすのも、實は虛僞卽ち人を欺きて善をなすものだとの意味に解すべきか、然らず。今日こそ吾人は僞を虛僞詐僞の僞とのみ解すれども、元來此の字は「人」と「爲」とを結合したもので、人爲といふことである。卽ち此の意味は、道德といふものは人性に固有なるものでない、ただ人が道德を履み行はねば社會の秩序が忽ち破れ平和に共同生活を營むことが出來ないところから、聖人が禮儀師法を作り人をしてよらしむるものなのである、それ故、人は其の本性を矯めてこの人爲的に出來た道德の軌範に從ふとの意味にて、別にその道德を履行する人が實は惡いことをしながら、看せかけに善をなすとの意ではないのである。又「佞」といふ字がある。これも後世は奸佞などいつて非常に惡いことになつて居るが、これも古昔は必ずしも惡い意味にのみ用ひて居ない。論語に、或人が孔子の弟子冉雍(仲弓)を評して「雍也仁而不佞。」といつた。此は或人が雍を惜しんだ言葉で、彼は仁德を備へたれど惜しむらくは佞がないといふ評であるが、若し奸佞の佞であつたら、不佞と云つて惜しんだことの意味がさつぱりわからぬ。元來、佞とは「口才曰ㇾ佞」とあつて辯舌のさわやかなることで、辯舌のさわやかといふことは決して惡いことではない。惡くないどころか、昔の君子の藝能の内の重なるものになつて居た。聖賢の敎にても必ずしも沈默がよいといふことはない。唯口先計りうまくて實行が之に伴はねば惡いけれども、辯舌をよくして人に應對して品位を保つことは君子の最も重しとする所であつた。それで不佞と惜しんだことになる。
其の他、古典に天の字が屢〻あらはれる。天に對する古代人の考は後章で詳しく述べるが、要するに宇宙の主宰者をさすときに天といひ、結局、宗敎的の意義をもつてゐたのであるが、これも後世宋儒に至つてすべて哲學的に古典を解釋する所よりして、天に宗敎的主宰者的の意義を與へずして、理と殆ど同一義に用ひた。又、性の字義でも、論孟に見えたるものと程朱などの考へたものとは同一でない。論孟の性とは、性質とか個性などいふ場合の性と同一意義なれども、程朱のは佛性といふが如き性にて、すべて人類に普遍共通なるものと考へて居る。蓋し、宋儒の如きは大いに佛老殊に佛敎の感化を受け、其の哲學的思想を以て古典を解釋するので、宋儒獨自の哲學としては大いに價値あるべけれど、此を以て古典の正解となすことはできぬ。淸朝の考證學者や我國の古學者が宋儒を駁するのも、固より謂なしとせぬ。古典を研究する場合には、常に其の當時に於て此の字は如何なる意味に解かれたかといふことを考へることが必要なのである。
訓詁は漢以來、古典の注に「某某也」といふ位に解釋が出て居るが、この訓詁のみは漢儒の訓詁に最も信がおけるとされる。何故なれば、漢儒は孔子の時代を距ること比較的に近く、孔門七十子の相傳したる經説が漢儒まで引續き繼承され、傳授の迹がよく分つて居るからである。結局、古典を研究せんと欲せば、漢儒の訓詁を以て標準とし、先づ古注により、又爾雅・説文の類を参稽して、古義に違はざらんことを期せねばならぬ。爾雅には淸儒郝懿行の爾雅義疏、説文には段玉裁の説文解字注がある。なほ又、戴震の孟子字義疏證、伊藤仁齋の語孟字義、物徂徠の辧名など、これ等の書も、古典に見えたる抽象的の名詞に對し原始的儒敎に於て行はれた字義を明かにして居る。程朱學派の訓詁は、陳北溪の性理字義を參考するがよい。
(三)校勘(又は校讎)とは、本文の數種類あるを參稽して文字の異同を正すことである。校勘は漢の劉向からはじまつた。漢書の藝文志によると、成帝のとき、書頗る散亡したので、謁者陳農をして遺書を天下に求めしめ、其の書祕府に集るや、劉向をして之を校せしめた。當時、劉向の擔任したものは經傳・諸子・詩賦の類であつたが、一緖畢るごとに、其の篇目を條し其の指意を撮みて錄奏したが、劉向卒するに及び、其の子劉歆、又哀帝の命を奉じ父業を卒へたとなつて居る。のち唐の陸德明といふ人が、周易・古文尚書・毛詩・周禮・儀禮・禮記・春秋左氏傳・公羊傳・穀梁傳・孝經・論語・老子・莊子・爾雅の諸書につき、漢魏六朝の音切凡二百三十餘家を採り、又諸儒の訓詁を載せると同時に、各本の異同を附し、題して經典釋文と云つた。(一)此れ亦た校勘家に缺くべからざる書である。
又、石經といふものがある。卽ち經書の本文を正して之を石に刻し、學者をして正を取らしめたもので、最も古きは漢の蔡邕の一字石經である。後漢書靈帝本紀によると、熹平四年春三月、諸儒に詔して五經文字を正し、石に刻して太學門外に立てたとあり、又同書蔡邕傳によれば、碑始めて立ちしとき、學者の之を觀視し若しくは摹寫せん爲に來れることが記されて居る。なほ魏晉以來屢〻石に刻することが行はれたが、今日まで有名なるは唐の開成石經であらう。此は唐の文宗の開成二年に成つたものであるが、唯當時師法に乖くこと多しとして、名儒は之を窺はなかつたと舊唐書に見えてゐるが、ともかく有名なものである。(二)
之を要するに、古典は其の文字極めて簡單で、一字の異同が全文の意味に大關係を及ぼすことが往往あるのであつて、校勘學の忽にすべからざる理由はここにある。但、古昔は雕板のことなく皆手寫に成つたので、其の文字比較的に誤謬が少かつた。五代のとき印板の術始めて起り(三)、宋に至つて刊書が愈〻盛であつたが、後、坊刻なるもの出て專ら營利に務めたため、校正に注意をなすこと少くなり、書を得ることの容易なると同時に、文字の誤謬は年を追うて多くなつた。故に刊書について言へば、宋板第一、元板第二、明板第三で、本朝の飜刻は更に之を問ふを用ひぬ。
蓋し、古典のうち經書は、學者の尊崇するもので又之を研究するものが多いため、比較的に誤謬が少いが、諸子の類に至つては、甲令の定むるものでもなく、又之に手を下すもの少きを以て、其の誤謬も又經書の比ではなく、其の或者にあつては脱落舛誤、全く句讀すべからざるものがある。故に諸子を研究せんと欲せば、殊に善本を得て校讀せねばならぬ。
淸朝に於ては空疏の弊を受け、之を救はんとして實事求是の學を唱へ、古書の校勘に力を專にするもの現はれ來つたが、如何にせん支那は屢〻革命を經て載籍多く兵火に罹り、古本の存するものが極めて寡い。之に反し、我國には祕府を始め名門巨刹及び收藏家に、舊鈔本若しくは板本で支那に知られないものが多い。此のことは支那人自身も之を認め、秦火以前に徐福が齎した尚書百篇までも我國にあるものと想像した位である。尚書百篇のことは固より荒唐の談なれども、古書の我國に存するもの多きは事實である。我が享保年中、西條の儒臣に山井鼎といへるもの、足利學校に往き、所藏の郡籍につきて經書の本文の異同を考へ、七經孟子孝文を著はし、それに物觀が補遺を作つた。而して彼が校勘に使用した各本を見るに、宋板あり古本あり足利本あり、みな貴重なものである。ここに古本といふは我が博士家に傳來の古鈔本で、足利本とは足利學校に於て舊鈔本をもととして活字に刊したものである。此等は支那學者のまだ見ざりしもので、山井は此等の各所によつて異同を錄し、この七經孟子孝文(易・書・詩・左傳・禮・論・孝・孟)を書いたのであるが、此が支那に傳はり、大いに彼の土の士大夫の目を驚かし、此の書は四庫全書中に入つた。邦人の著にして四庫全書にも入り、又彼の地の學者に廣くその名を知られたものは、邦儒にて山井鼎一人といふべく、これは實に特筆すべきことである。支那にては淸の嘉慶のとき阮元都邑學者があつて、此を飜刻し、且つ十三經を刊しその校勘記を著はして居る。此の校勘記は全く山井鼎の七經孟子孝文によつたもので、若し山井の書なかりせば、阮の書或は成り難かつたかも知れぬ。しかし、山井が足利學校で研究したのは享保年間でも年代も舊く、又足利學校の書が最もよいといふわけでもない。今日、宮内省圖書寮にある數點の經書などは、其の價値から云へば、足利學校の宋本・古本など中中及ぶ所ではない。又支那では阮元の時代までは、宋本とても少く、殊に古鈔本などは藥にもしたくもなかつたから、山井鼎の書が出て大いに驚いたわけであつた。しかし、かかる學風の影響として宋本も少しは世に出、殊に古鈔本については近年貴重な發見があつた。
それは往年、甘肅の西偏燉煌の千佛洞に於て、宋の始めに兵火の難を免れんが爲めに祕め置きし數萬通の古書、それは必ずしも漢字で書いたものばかりではないが、とにかく大群の古書が發見されたことである。英國の Stein は其の一部を得て之を British Museum に入れ、佛國の Pelliot は之を佛京 Bibliotheque Nationale に入れた。うち漢字で書いたものには佛典が多いが經書も少くない。是等のものの一部分は余も滯歐中寫し取つて歸つたが、我國に傳はるものと同じきもあり又同じからざるもあり、又將來今まで知られなかつた古鈔本が出て來て、校勘の上に非常なる助をなすべしと信ずる。
然らば何故に校勘がかくも必要であるか。世には、縱一二字の異同があつたとて大義には關係がないではないかといふ人もあれど、決してさうではない。古典研究には、一二字の異同でも非常なる影響を及ぼすことがある。左に其の一例を擧げる。
論語に「君子務ㇾ本。本立而道生。孝弟也者。其爲仁之本與。」といふ有子の語が載せられて居る。此につき、宋儒殊に程子などは、中中面倒な議論をして居る。それは結局、仁と孝弟との關係である。程子の考によるときは、孝・弟とは一の行爲であつて、それが終局原理ではない。人がこの孝・弟の行をなすについて、この行をなさしむる本がある、此を仁となす。程子の流儀から云へば、仁は性であつて、孝・弟とは其の性より發し來る「用」である。結局、人は孝・弟其の他の善行をなすが、其の個個の行はそれ自身で完全なるものでない。此は河の支流の如きもので、支條の出る共通の源頭が無くてはならぬ。之を仁といふのである。卽ち本末といふことになれば、程子の考では仁は性であるから本で、孝・弟は仁の一の現はれに過ぎないから末といふことになる。然らば、程子の考と有子の語とは大に矛盾するのではないかといふに、程子はいふ、「性中只有㆓箇仁義禮智四者㆒而已。曷嘗有㆓孝弟㆒來。」と。卽ち仁と孝・弟とは一は原因、一は結果で、 quality が違ふものである。有子の語は、孝・弟は「仁の本」といふのでなく「爲仁の本」と見るべしとする。卽ち仁は固より孝・弟の本である、唯「爲仁」卽ち仁を行ふ修養の上より云ふときは孝・弟より始むべきを云つたものとする。換言すれば、哲學的に云へば仁は孝・弟の本なれども、實際生活上、吾人の修養の上、卽ち前後の關係から云へば孝・弟より始むべしと云つたと説明する。結局、程子の説明にとつては「爲仁」の爲字が極めて緊要なこととなつてゐる。一體、宋の時代には一方に佛敎があり、之と對立するには孝・弟が人間の終極の目的などと云つては餘りに淺薄に思はるる虞あり、又漢唐時代までの一般學者によつてなされたやうな常識的實行的の説明に滿足が出來ぬ所から、儒敎の倫理説に形而上學的の背景を加へて、孝・弟の本は仁といふ具合に説明をしたものである。しかし、論語研究の上からは、己の私見を去り、其の文字を離れず、有子の語は有子の語として其の意味を窺ふことが必要である。ところで其の判決といふことになるが、數多き論語の本文の内にて、我國に傳つた古き本文には「爲仁」の爲の字が無い。若しこの爲字の無きが正しとすれば、有子の言を解釋した程子の説明は根柢より覆つてしまふわけである。
以上述べたる所はその一例に過ぎぬが、校勘が如何に大切な仕事であるかを知るに足るであらう。我國では山井鼎以後、狩谷棭齋・市野迷菴の如き校勘家として有名な學者も出て居る。しかし、我國に存する古書が此等戰敗によつて盡くその祕を發せられたわけでもなく、又前述新出の資料も提供されて居る今日、此の方面に關しては猶ほ力を用ふべき十分の餘地ありと云はねばならぬ。
第二、敎義研究は又分つて歷史的研究と比較的研究の二とする。
(一)歷史的研究とは、例を儒敎にとりて論ずれば、古昔より今日に至るまで、古典に對する解釋、從つて敎義そのものが如何に變遷したかを研究することである。一體、六經孔孟よりして後世儒家に至るまで、すべて一の儒敎といふものの中に含有されるわけではあるが、其の説く所に至つては蓋し一とは申されぬ。一例を擧ぐれば、孔子の宗旨は仁の一字にありと云へる。而して六經又仁を言はざるにあらざるも、孔子の所謂仁ではない。又、孔子までは仁義並び稱するといふことなく、孟子に至つては義を仁に配した。更に漢儒となると、仁義禮智信と立てて之を五行に配したのである。又、孔子は性の善惡について明言せぬが、申しは性善の説を唱へ、荀子は性惡説を述べた。道は宋儒に從へば事物當然の理と解すれど、徂徠の如きは道を以て禮樂卽ち先王の制作に成るものとする。蓋し、均しく儒敎を奉ずるものにして、其の説が互に異なるは怪しむべしと雖も、此を儒敎敎義が歷史的に發展したものと見れば、毫も差支へ無いであらう。且つ前にも述べしが如く、宋儒の學説は、古典の忠實なる解釋の側からは稍〻不適當に思はれるであらうが、之を儒敎から出た一の哲學系統として見れば、大いに價値ありと云へるであらう。要するに、從來の儒者は歷史的研究の精神に乏しく、其の信ずる所を墨守し、之によつて一切を律せんとするの弊があつた。故に今日古典を研究せんとするものは、漢學若しくは宋學、又宋學のうちにても朱子學・陽明學などと一方に偏倚せず、よく諸家の學説について公平なる判斷を下し、其の如何に變遷せしかを研究すべきである。
(二)比較研究とは、支那の或る哲學思想を他國のそれと比較することである。蓋し、從來の和漢學者は唯本文研究にのみ心を用ひ、敎義研究、殊に比較研究について之を試みたものがない。此は是非とも今人に待たねばならぬ。しかし、茲に注意すべきは、比較研究といふ仕事は、學東西に博通する者にあらざれば、能く之に當ることが出來ぬのみならず、前にも屢〻述べたる如く、支那の哲學思想は西洋若しくは印度のそれとは根本的に相違するので、一言半句の合類似するものありとて直に之を比較結合するときは大なる誤謬を來すといふことである。例せば、易では數を言ふので之をピタゴラスの哲學に比較し、子思の中庸を以てアリストテレースの中道と比較し、若しくは老子の學説はヘーゲルに似たりとか、中庸の「無ㇾ誠無ㇾ物」の物を物質と解して其の思想を唯心論とするといつた類である。此の如き比較論は、力を用ふること少きわりあひに、世俗の耳を傾けしめ、賞讚を博するものなれど、能く注意せざるときは輕佻なる學風に陷るものである。
(一)經典釋文には淸の盧文昭の考證あり、參考するがよい。
(二)石經の事に關しては、朱竹坨の經義考卷二百六十七以下に刊石の條あり。又、顧炎武の石經考、萬斯同の石經考等を參酌するがよい。猶ほ、淸朝にも、乾隆に敕刊され、嘉慶に改定された石經があり、北京國子監に建ててある。
(三)普通に、印板の紀元をば後唐の長興三年(西曆九三二)としてある。唯佛經のみは隋の開皇年間既に雕板があつたと云はれて居る。